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74#115
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(参照:オーストリア=ハンガリー帝国、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ポーランド(ガリツィア)、スロベニア、クロアチア、ルーマニア、ブコビナ、イタリア(南チロル))
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オーストリア
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75#11
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著作権法28条によれば、原著作物の著作者が有する氏名表示権は二次的著作物にもおよび、原著作物の著作権者は、二次的著作物の利用に関して二次的著作物の著作者と同じ内容の権利を有する。しかし、原著作物の創作的表現が存在しないと認められる程度に改変がされた場合は、当該改変版は原著作物の二次的著作物ではないため、原著作物の著作権者は改変版に対して著作権を行使することができない。さらに、著作者は氏名表示を要求することができなくなる。
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GNU Free Documentation License
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82#0
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バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza、1632年11月24日 - 1677年2月21日)は、オランダの哲学者である。ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。
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バールーフ・デ・スピノザ
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82#9
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スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。これは推論の形をとってはいるが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。懐疑において求められた確実性は、この直覚において見出される。これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。
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バールーフ・デ・スピノザ
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90#1
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世界で英語(約80の国・地域)に次ぐ2番目に多くの国・地域で使用されている言語で、フランス、スイス、ベルギー、カナダの他、かつてフランスやベルギーの領域だった諸国を中心に29カ国で公用語になっている(フランス語圏を参照)。全世界で1億2,300万人が主要言語として使用し、総話者数は2億人以上である。国際連合、欧州連合等の公用語の一つにも選ばれている。このフランス語の話者を、 () と言う。
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フランス語
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90#6
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20進法と10進法の組み合わせである。かなり複雑だが、これはフランスでの例であり、ベルギーやスイスでは70を、90を、さらにスイスでは80をで表し、比較的10進法に近い。敬称紀元前58年から紀元前51年にかけて、共和政ローマのガイウス・ユリウス・カエサルがガリア戦争を行い現在のフランスの領域のほぼ全域をローマ領としたことが、この地域にフランス語の祖語であるラテン語が本格的に導入されるきっかけとなった。ガリア戦争以前にはこの地域では主にケルト語系のゴール語が用いられていたが、ローマの支配が定着するにつれてラテン語が優勢となっていき、ガロ・ロマンス語と呼ばれるラテン語の方言群が成立した。この言語は基本的にラテン語の影響が強くその一方言と呼べる存在であったが、ケルト語からいくつかの音韻的な影響を受けたものだった。その後ローマ帝国の崩壊とともにフランク王国がこの地域を支配すると、彼らの言語であったゲルマン系の古フランク語が持ち込まれ、その影響を受けてこの地域のラテン語は大きく変容し、9世紀ごろにはラテン語から完全に分離した古フランス語が成立した。その後、14世紀ごろには中世フランス語へと変化し、17世紀にはアカデミー・フランセーズによってフランス語の純化・整備がおこなわれて現代フランス語が成立した。
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フランス語
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90#15
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フランス語の母語話者が大きな勢力を持つのは上記地域に限られるが、そのほかの地域においてもかつてフランスが広大なフランス植民地帝国を持っていた関係で、旧植民地においてフランス語を公用語とする国々は数多く、29カ国において公用語の地位を占めている。最もフランス語が公用語化されている地域はアフリカであり、旧フランス領地域においては、セネガル、ギニア、マリ、コートジボワール、ブルキナファソ、トーゴ、ベナン、ニジェール、チャド、中央アフリカ、カメルーン、ガボン、コンゴ共和国、コモロ、マダガスカル、ジブチにおいてフランス語は公用語となっている。旧フランス領のほか、同じくフランス語を公用語とするベルギーの植民地であったコンゴ民主共和国およびブルンジもフランス語を公用語とする。一方、旧フランス領においても北アフリカに属するモーリタニア、モロッコ、アルジェリア、チュニジアにおいてはフランス語は公用語となっていない。これは、これらの国々の人口の大部分を占めるアラブ人の母語であるアラビア語も大言語であり公用語化に耐えうる言語であったため、独立後急速にアラビア語への公用語の切り替えが行われたためである。ただしこれらの国々においても、特にエリート層はフランス語を自由に使いこなせるものが多く、準公用語や文化言語として広く国内で通用する。特にアルジェリアでは、1200万人前後がフランス語を常用する(も参照)。また、旧ベルギー領であるルワンダは長らくフランス語を公用語としていたものの、ルワンダ虐殺の発生後フランスとの関係が急速に悪化し、2009年には英語を公用語に追加して以降教育言語を英語に変更するなど急速に英語の公用語化を進めている。また、セーシェルやモーリシャスはナポレオン戦争以後イギリス領となっていたものの、それ以前はフランス領であり、その時代に入植した人々がその後も残留したため、社会の指導層はフランス語話者が占めており、両国とも共通語はフランス語となっている。また、国内で最も通用する言語も それぞれフランス語系のクレオール言語であるセーシェル・クレオール語とモーリシャス・クレオール語である。このほか、フランスの海外県であるマヨット及びレユニオンもフランス語を公用語としており、レユニオンは日常語もフランス語系のクレオール言語であるレユニオン・クレオール語となっている。
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フランス語
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90#16
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新大陸においては、上記のカナダ以外にはハイチが唯一フランス語を公用語とする国家である。またハイチにおいては一般市民の日常語もフランス語系のクレオール言語であるハイチ語となっている。また、公用語ではないが旧フランス領であるルイジアナ州の南西部を中心にケイジャン・フランス語と呼ばれるフランス語の一派を話す人々が存在する。小アンティル諸島に点在するグアドループやマルティニーク、サン・マルタン、サン・バルテルミー島、および南アメリカ大陸のフランス領ギアナもフランス語を公用語とする。
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フランス語
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90#23
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公式名称がフランス語である世界的に著名な国際競技団体も多い。F1を開催している国際自動車連盟 () 、MotoGPを開催している国際モーターサイクリズム連盟 ()、FIFAワールドカップを開催している国際サッカー連盟 ()、国境なき医師団 ()、近代オリンピックを開催している国際オリンピック委員会()などである。
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フランス語
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91#18
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文法、統語法についてはイタリア語の文法を参照。古代のイタリア半島においては複数の古代イタリア人とも言うべき部族が存在し、それぞれが異なる言語を用いていた。その後、古代イタリア人の一派であるラテン人の国家ローマによるイタリア統一によって、彼らの言葉であるラテン語がイタリア人の公用語として普及した。ラテン語はローマの力が西欧や地中海沿岸部に広がるにつれて更に拡大したが、公式の場で用いられるラテン語と民衆の話し言葉としてのラテン語、いわゆる民衆ラテン語(俗ラテン語とも)には若干の差異が存在したと言われている。
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イタリア語
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91#19
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ローマ帝国の分裂は各地の民衆ラテン語の方言化を招き、イタリアにおいても「民衆ラテン語のイタリア方言」と呼べる言葉が成立した。イタリアにおける民衆ラテン語の方言は時間と共に変化の度合いを深め、いつしか他地域の民衆ラテン語とは明らかに異なる言語と言えるほどの変化を得た(古イタリア語)。民衆ラテン語から古イタリア語への変化がいつごろ生じたかを正確に判断することは難しく、また当時の欧州諸国は公用語としてラテン語を用いており文章による記録が少ないため、どのようなものであったかについての検証も容易ではない。しかし少なくとも10世紀頃には既に成立していたと考えられている。
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イタリア語
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92#4
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スペイン語は、ローマ帝国の公用語であったラテン語の口語である俗ラテン語を元に、アラビア語などの影響を受けながら発達した言語である。8世紀に北アフリカからイスラム教徒がイベリア半島に侵入し、その後、キリスト教徒によるレコンキスタ(再征服運動)が起こるが、この時期に俗ラテン語がロマンス諸語に変化した。このロマンス諸語が後に、ポルトガル語、スペイン語、イタリア語、フランス語、ルーマニア語などに分かれていく。
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スペイン語
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92#12
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フィリピンは1898年までスペイン領であった関係もあり、特に上流階級の間でスペイン語が使われていたが、1986年に公用語から外された。とはいえ、現在でも主にカトリック文化などの関係でスペイン語の単語が多数フィリピン人の日常生活で使われているだけでなく、タガログ語などでスペイン語からの借用語が多くみられるほか、チャバカノ語のようにスペイン語を基にしたクレオール言語も見られる。
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スペイン語
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99#16
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ポピュラー音楽の歴史は17世紀頃、アメリカへの移民まで遡る。本格的に移民が行われるようになると白人によるミュージカルのような劇場音楽が盛んになった。また、アフリカからの黒人により霊歌(スピリチュアル)、ブルースやゴスペルが始まった。19世紀末にはブルースが西洋音楽と融合し、スウィングや即興、ポリリズムが特徴的なジャズに発展していった。1920年代にはブルースやスピリチュアル、アパラチア地方の民俗音楽が融合したカントリー・ミュージック(カントリー)が人気を集め、1940年代には電子楽器や激しいリズムセッションが特徴的なリズム・アンド・ブルース(R&B)、1950年代にはR&Bとゴスペルが融合したソウルミュージック(ソウル)が生まれた。さらに、1950年代半ばにはカントリー、ブルース、R&Bなどが融合したロックンロール(ロック)が現れ、1970年代にはヒップホップの動きが現れた。作曲とは、曲を作ること、あるいは音楽の次第を考案することである。具体的には、楽譜を作成してゆく、ということもあれば、即興演奏という方法で、楽譜制作は抜いて、作曲をすると同時に演奏をしてゆく、ということもある。
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音楽
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100#0
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インドネシア共和国(インドネシアきょうわこく、Indonesian: Republik Indonesia)、通称<b data-parsoid='{"dsr":[1649,1661,3,3]}'>インドネシア</b>は、東南アジア南部に位置する共和制国家。首都はジャワ島に位置するジャカルタ。
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インドネシア
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100#5
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正式名称は Republik Indonesia (インドネシア語: レプブリク・インドネシア)、略称は RI(インドネシア語: アール・イー)。
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インドネシア
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100#7
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日本語表記は<b data-parsoid='{"dsr":[3027,3042,3,3]}'>インドネシア共和国、略称は<b data-parsoid='{"dsr":[3046,3058,3,3]}'>インドネシア。漢字表記は<b data-parsoid='{"dsr":[3078,3089,3,3]}'>印度尼西亜、略称は<b data-parsoid='{"dsr":[3093,3100,3,3]}'>尼。
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インドネシア
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100#12
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人類が使用するいろいろの道具を石器で作っていた時代である。なお当時は、石器のみではなく、竹や木からの利器や器具、道具が作られていた。この石器時代をさらに旧石器時代、中石器時代、新石器時代、巨大石器時代の4つに分けることができる[6]。
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インドネシア
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100#80
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世界で最も多くの島を持つ国であり、その数は1万3466にのぼる[1]。島の数は人工衛星の調査により算出されたもので、かつては1万8,110とも言われていたが、再調査の結果2013年に現在の個数が明らかになった[1][38]。
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インドネシア
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100#97
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ほかに約300の民族がおり、住民の内、ジャワ人が45%、スンダ人が14%、マドゥラ人が7.5%、沿岸マレー人が7.5%、その他が26%、中国系が約5%となっている。
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インドネシア
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100#100
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公用語はインドネシア語であり、国語となっている。会話言語ではそれぞれの地域で語彙も文法規則も異なる583以上の言葉が日常生活で使われている。インドネシア語が国語と言っても、日常で話す人は多くて3,000万人程度で国の人口比にすると意外と少ないが、国語になっているため第2言語として話せる人の数はかなり多い。また、首都ジャカルタに出稼ぎにでる人も多い為、地方の人でもインドネシア語は必須であり、話せないと出稼ぎにも影響が出てくる。
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インドネシア
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100#101
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インドネシア語識字率:88.5%(2003年)
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インドネシア
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100#102
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インドネシア語、ジャワ語、バリ語などを含むオーストロネシア語族の他に、パプア諸語が使用される地域もある。
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インドネシア
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100#112
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インドネシア大学(UI) ガジャ・マダ大学(UGM) バンドン工科大学(ITB) パジャジャラン大学(UNPAD) ボゴール農科大学(IPB) インドネシア教育大学(UPI,旧IKIP) インドネシア国立芸術大学 ウダヤナ大学(UNUD) マハサラスワティ大学 トリサクティ大学 スラバヤ工科大学 アイルランガ大学 (UNAIR)-スラバヤにある国立大学。 ディポネゴロ大学 - 中部ジャワのスマランにある国立大学。 ハサヌディン大学(UNHAS) - 南スラウェシ州都のマカッサル(旧名ウジュン・パンダン)にある国立大学。 チャンドラワシ大学 - パプア州都のジャヤプラにある国立大学。 ブラウィジャヤ大学 (UNIBRAW) - 東ジャワのマランにある国立大学。 ランプン国立大学(UNILA)ースマトラのランプン県にある国立大学。
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インドネシア
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100#127
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政府 (in Indonesian)(in English) (in Indonesian)(in Japanese) インドネシアの法律
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インドネシア
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101#33
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1990年8月にクウェート侵攻後、1991年に湾岸戦争となり敗北した。
イラク武装解除問題 (1991年 - 2003年)。による情報。2003年3月、イラク戦争に敗れてサッダームも死亡し、バアス党政権体制は崩壊した。戦後、イラクの石油不正輸出に国連の「石油食料交換プログラム」が関与していた国連汚職問題が発覚した。
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イラク
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101#68
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18の県 (「州」と呼ぶこともある) に分かれる。
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イラク
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101#74
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1980年に始まったイラン・イラク戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、原油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。
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イラク
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101#116
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1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつアッシリア東方教会 (ネストリウス派) に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、東方帰一教会の一つとなった。
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イラク
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102#40
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憲法では公式にシーア派イスラームの十二イマーム派を国教としており、他のイスラームの宗派に対しては“完全なる尊重”(12条)が謳われている。一方非ムスリムに関しては、ゾロアスター教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒のみが公認された異教徒として一定の権利保障を受けているが、シャリーアにおけるイスラームの絶対的優越の原則に基づき、憲法では宗教による差別は容認されている。バハーイー教徒や無神論者・不可知論者はその存在を認められておらず、信仰が露呈した場合は死刑もありうる。また非ムスリム男性がムスリム女性と婚外交渉を行った場合は死刑なのに対し、ムスリム男性が同様の行為を行った場合は「鞭打ち百回」であるなど、刑法にも差別規定が存在する。イスラームからの離脱も禁止であり、死刑に処される。2004年にはレイプ被害を受けた16歳の少女が死刑(絞首刑)に処された。なお加害者は鞭打ちの刑で済んだ。
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イラン
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109#0
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ロシア連邦(ロシアれんぽう、:英語名 Russian Federation)、またはロシア () は、ユーラシア大陸北部にある共和制及び連邦制国家。
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ロシア
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109#1
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地理的にロシアの国境は、北西から南東へ、ノルウェー、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニアおよびポーランド(ともにカリーニングラード州と隣接)、ベラルーシ、ウクライナ、ジョージア、アゼルバイジャン、カザフスタン、中華人民共和国、モンゴル国、朝鮮民主主義人民共和国と接する。海上境界線としては、日本とはオホーツク海・宗谷海峡・根室海峡・珸瑤瑁水道、アメリカ合衆国とはベーリング海峡でアラスカ州と接する。ロシアの面積は17,075,400kmで世界最大であり、地球上の居住地域の8分の1を占める。2012年時点で、ロシアの人口は1億4300万人で世界第9位である。国土は北アジア全体および東ヨーロッパの大部分に広がることに伴い、ロシアは11の標準時を有し、広範な環境および地形を包含する。
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ロシア
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109#2
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ロシアの歴史は、3世紀から8世紀までの間にヨーロッパで認識され始めた東スラヴ人の歴史に始まる。9世紀、ヴァリャーグの戦士の精鋭およびその子孫により設立及び統治されて、キエフ大公国の中世国家が誕生した。988年、東ローマ帝国から正教会を導入し、次の千年紀のロシア文化を特徴付ける東ローマ帝国およびスラブ人の文化の統合が始まった。キエフ大公国は最終的には多くの国に分裂し、キエフ大公国の領土の大部分はモンゴルに制圧され、遊牧国家ジョチ・ウルスの属国になった。モスクワ大公国は次第に周辺のロシアの公国を再統合し、ジョチ・ウルスからの独立を獲得し、キエフ大公国の文化的および政治的な遺産を支配するようになった。18世紀までにモスクワ大公国は、王朝による征服・併合、シェレホフ提督による探検を通じ、史上第3位の大帝国であるロシア帝国となり、版図がポーランドから北米のアラスカまで広がった。
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ロシア
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109#11
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ロシアの国名は、現在のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生した(現代ギリシャ語では)の発音によって生まれた名前である。この名は、ルーシの北東の辺境地に起こったモスクワ大公国がルーシ北東地域を統合し、“ルーシの遺産の争い”をめぐってリトアニア大公国と対立していた16世紀のイヴァン4世(雷帝)の頃に使われ始め、自称に留まったロシア・ツァーリ国を経て、18世紀初頭のピョートル1世(大帝)がロシア皇帝(インペラートル)と称したことにより対外的にも正式の国名となった。
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ロシア
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109#12
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ルーシのギリシャ語風名称としてのロシア(正確には「ローシア」)という語はかつてのルーシの諸地域を指し、ルーシ北西部を「大ロシア」現在の西ウクライナあるいは中・南部ウクライナを「小ロシア」と呼んだ。ベラルーシも「白ロシア」という意味である。しかし、小国の乱立したルーシ地域では早くからウクライナやベラルーシの人々とロシアの人々との間には異なった民族意識が醸成されていった。結果、これらの国々はロシア帝国の崩壊後別々の国家を樹立し、再統合されたソ連邦下でも別々の共和国とされ、ソ連邦の解体に際しては別々に独立することとなった。別の観点から言うと、ロシアはキエフ・ルーシ時代、その大公権に属するモスクワ公国という小さな一部分に過ぎなかったが、ジョチ・ウルスの時代に征服者モンゴルとうまく協調したこと(税金を進んでモンゴルに納めたことなど)や、隣国を破って旧キエフ・ルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと、帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するため、モスクワは東ローマ帝国からローマの威信も受け継いだという学説も考案された。こうしたことから、モスクワ大公国は「偉大なルーシ」の権力を継ぐ国家であると自称するようになり、なおかつヨーロッパ国家の一員であるという考えから公式にギリシャ風の「ロシア」を国号として用いるようになった。
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ロシア
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109#16
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数多くいるルーシ諸公の一人に過ぎなかったモスクワ公は、モンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ、15世紀にキプチャク・ハン国の支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のち、モスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗り、その支配領域はロシア・ツァーリ国と自称するようになった。ただし、国内の生産力は低く、西欧諸国からは異質の存在と見られている。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化、シベリア進出などの領土拡大を進めたが、彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ)たちはツァーリの宮廷の権威を認めず、士族民主主義の確立していたポーランド・リトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちはポーランド・リトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立て、ツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げ、さらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い、共和国軍と共にモスクワを占領した。いっぽう、ツァーリ派の貴族や商人たちは政商ストロガノフ家の援助でニジニ・ノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側は、モスクワ政策を巡ってローマ・カトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公が信教自由主義のポーランド・リトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし、「反ローマ・カトリック闘争」の形で急速に数を増した。そして1612年、ドミートリー・ポジャールスキーとクジマ・ミーニンの指揮の下、モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃、11月1日して撃破、モスクワを解放した。この、民主派に対するツァーリ派、およびローマ・カトリックに対するロシア正教会の勝利は、現在でも国民の祝日となっている(11月4日)。ここで中世ロシアは終わり、ロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。
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ロシア
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109#17
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1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。17世紀末から18世紀初頭にかけて、ピョートル1世(大帝)は急速な西欧化・近代化政策を強行し、新首都サンクトペテルブルクの建設(1703年)、大北方戦争(1700年 - 1721年)での勝利を経てロシア帝国の基盤を築いた。彼の時から正式に皇帝(インペラートル)の称号を使用し、西欧諸国からも認められた。1762年に即位したエカチェリーナ2世はオスマン帝国との露土戦争(1768年 - 1774年、1787年 - 1792年)に勝利すると共に、ポーランド分割に参加し、欧州での影響力を増加させた。彼女の治世においてロシアはウクライナとクリミア・ハン国を併合し、名実ともに「帝国」となった。また、大黒屋光太夫が彼女に謁見したことにより、アダム・ラクスマンが日本に派遣(詳細は「北槎聞略」参照)され日露関係史が実質的に始まった。
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ロシア
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109#21
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1914年に勃発した第一次世界大戦では連合国の一員としてドイツ・オーストリアの中央同盟国と開戦したが、敗北を重ねて領土奥深くまで侵攻された。第一次世界大戦中の1917年2月に起こったロシア革命でロマノフ王朝は倒された。革命後、旧帝国領土には数多の国家が乱立し、外国の干渉軍も加わって激しいロシア内戦となった。1917年11月7日には十月革命でロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ政権が樹立され、そのトップとなったウラジーミル・レーニンはポーランド・バルト三国・フィンランドの独立承認で帝国の西方領土の一部を手放した後、ボリシェビキを改称したロシア共産党を率いて内戦に勝利し、1922年の年の瀬にソ連共産党の一党独裁によるソビエト社会主義共和国連邦を建国した。旧ロシア帝国領の大部分を引き継いだソ連を構成する4共和国(その後15まで増加)のうち、ロシア人が多数派を占める大部分の地域はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国となった。ソビエト連邦とロシア連邦共和国の首都がサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに復され、同時にサンクトペテルブルクはレニングラードに改称された。ロシア連邦共和国内に居住する少数民族については、その人口数などに応じて自治共和国、自治州、民族管区などが設定され、事実上ロシア連邦共和国とは異なる統治体制をとった。
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ロシア
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109#24
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1939年9月の第二次世界大戦勃発直前に一時ナチス・ドイツとモロトフ・リッベントロップ協定を結んで協調し、ポーランド第二共和国をソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄して侵攻し、ポーランドを占領、冬戦争でフィンランドにも圧迫を加え、1939年12月の理事会において国際連盟から除名された。1940年にはバルト三国を併合してソビエト連邦の一部とし、さらにルーマニアからベッサラビア地方を割譲させた。1941年6月には独ソ不可侵条約を一方的に破棄したナチス・ドイツのヒトラーに突如攻め込まれて西部の広大な地域を占領され、危険な状況に陥った。しかし、1942年初頭に首都モスクワの攻防に成功した後、英米をはじめとする連合国の助力もあってスターリングラード攻防戦及びクルスクの戦いを境に1943年後半には反攻に転じて独ソ戦の主導権を握り最終的には大戦に勝利し、更にポーランド東半、ドイツ、ルーマニア、フィンランド、チェコスロバキアの一部などを併合して、西に大きく領土を広げた。極東方面では、1945年8月に日本との日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦。満州国やサハリン南部、千島、朝鮮北部に侵攻して占領した。戦後は新領土内の非ロシア人の住民を追放し、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特にエストニアやラトヴィアなどではロシア人の比率が急増し、ソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領のカリーニングラード州でもロシア人の比率が急増して8割以上を占めるようになった。1946年には旧ドイツ領の東プロイセンの北部をカリーニングラード州、日本に侵攻して占領したサハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島、歯舞群島・色丹島を含む)全域を南サハリン州として編入した(南サハリン州は1947年にサハリン州に吸収)。一方、1954年には黒海沿岸のクリミア半島(クリミア州)がウクライナに割譲され、ロシア連邦共和国の領土は現在のロシア連邦に当たる領域になった。
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ロシア
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109#28
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1991年12月25日、ソビエト連邦崩壊により、ロシア共和国が連邦から離脱しロシア連邦として成立、エリツィンがロシアの初代大統領に就任した。また、ソビエト連邦崩壊により世界規模のアメリカの覇権が成立し、当時はこれを歴史の終わりと見る向きも現れた。
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ロシア
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109#67
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ロシアには人口100万人を超える都市が12(2010年時点)ある。最大の都市は首都モスクワ(1220万人(2015年))である。続くサンクトペテルブルク(519万人(2015年))との2都市が規模としては飛び抜けて大きく、独立したロシア連邦の構成主体(連邦市)として他の州や連邦内の共和国と同格となる。ウラル山脈東山麓のエカテリンブルク、チェリャビンスク、シベリアのオムスク、ノヴォシビルスクを除く都市はすべてウラル山脈よりも西側、すなわちヨーロッパ・ロシアに位置する。一方、厳しい気候条件のために長らく人口希薄地域だった極東部や北極海沿岸地域でも19世紀以降に鉄道・港湾整備や鉱業開発などに伴う都市建設が進み、ハバロフスクやウラジオストクは50万人を超える人口を持つ。
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ロシア
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109#68
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世界最大の面積を持つロシアは、ユーラシア大陸の北部にバルト海沿岸から太平洋まで東西に伸びる広大な国土を持つ。その面積は日本の約45倍、アメリカの約1.7倍にも達し、南米大陸全体の大きさに匹敵する(正確には南米大陸の方が約76万km²(日本の本州の約3倍程度)大きい)。国土の北辺は北極圏に入り人口も希薄だが、南辺に近づくと地理的に多様となり人口も多くなる。ヨーロッパ部(ヨーロッパ・ロシア)とアジア部(シベリア)の大部分は広大な平原で、南部のステップから北は広大なタイガがその大部分を占めており、さらに高緯度になると、樹木が生育しないツンドラ地帯となる。黒海とカスピ海の間の南の国境にはヨーロッパ最高峰(カフカス地方をヨーロッパ含めた場合)のエリブルース山を含むカフカース山脈があり、ヨーロッパとアジアの境界にはウラル山脈がある。
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ロシア
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109#100
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新聞出版社
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ロシア
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110#1
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観念論的な形而上学に対して、唯物論的な形而上学もある。諸科学が分化独立した現在では、哲学は学問とされることが多いが、科学とされる場合もある。近現代哲学において代表的な哲学者の言説を以下に記述する。
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哲学
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110#2
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啓蒙思想時代の哲学者であり、またドイツ観念論哲学の祖でもあり、そして近現代哲学に大きな影響力を持ち続けている哲学者、イマヌエル・カントは、哲学について次のように説明している。
現代思想において、特に分析哲学に多大な影響を及ぼした哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、哲学について次のように説明している。
現代思想において、特に大陸哲学に多大な影響を及ぼした哲学者、マルティン・ハイデッガーは、哲学について次のように説明している。
(、ピロソピアー、フィロソフィア)という語は、愛智という意味である。(愛する)と(知恵、知、智)が結び合わさったものであるので、元来「」には「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている。「哲学」という訳語は明治時代に西周が用いて一般的に用いられるようになった。(→#語源とその意味)
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哲学
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110#19
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また、「高貴な生き方とは存在するのか、また、あるとしたらそれはどのようなものなのか」「善とは永遠と関連があるものなのか」といった問いの答えを模索する営みとして、旧来の神学や科学的な知識・実験では論理的な解答を得られない問題を扱うものであるとも言える。またこのようなテーマは法哲学の現場に即しておらず、真偽が検証不可能であり、実証主義の観点からナンセンスな問いであると考える立場もある(例えば論理実証主義)。
こちらは、ひとくくりに「価値論」とよぶことがある。「よい」ということはどういうことなのか、何がよりよいのかを考える分野である。
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哲学
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110#20
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このような意味での哲学はより具体的にはとりわけ古代ギリシアのギリシア哲学、中世のスコラ哲学、ヨーロッパの諸哲学(イギリス経験論、ドイツ観念論など)などをひとつの流れとみてそこに含まれる主題、著作、哲学者などを特に研究の対象とする学問とされることも多い(哲学一般から区別する場合にはこれを特に西洋哲学と呼ぶことがある)。
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哲学
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110#21
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また、諸学問の扱う主題について特にこうした思考を用いて研究する分野は哲学の名を付して呼ぶことが多い。例えば、歴史についてその定義や性質を論じるものは「歴史哲学」と呼ばれ、言語の定義や性質について論じるものは「言語哲学」と呼ばれる。これらは哲学の一分野であると同時にそれら諸学の一部門でもあると考えられることが多い。
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哲学
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110#58
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他の学問と哲学を区別する特徴となるような独自の方法論が哲学にあるかどうかというのはなかなか難しい問題である。少なくとも近代哲学においてはデカルト以来、疑いうるものを懐疑する態度、できるだけ明晰に思考する態度、事物の本質に迫ろうとする態度が哲学を特徴づけてきたといえるだろう。
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哲学
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110#59
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ただ、これだけであれば学問の多くに共通する特徴でもあるし、逆に、理性や常識を信頼するタイプの哲学が哲学でないことになってしまう。分析哲学においては概念分析という道具を手にすることで、自然科学とは異なる独自の思考形態が成立したが、これも哲学すべてを特徴づける思考形態であるとは言いがたい。
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哲学
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110#64
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こうした分離や性格の差が生じた理由はいくつか考えられるが、知識の取得法(方法論、データのとり方、理論の当てはめ方、論争の決着のさせ方など)が確立した分野が順次哲学から分離していった結果、哲学はデータのとれないことについて考える領域なのだという了解が後から成立してきたという事情はおそらくあるだろう。
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哲学
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110#71
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伝統的に論理学は哲学の一分野として研究されてきた。
論理学は伝統的にわれわれの推論のパターンを抽出することを目的としてきた。特に伝統的な論理学においては、前提が正しければ確実に正しい結論を導くことができる手法としての三段論法が主な研究の対象であった。
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哲学
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110#73
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論理学の直接の関心は推論の妥当性や無矛盾性にあり、かならずしも人間や社会や自然の諸事象が考察の焦点にならない(この点で論理学は哲学の他の分野とは性格が異なる)。もし疑いようのない前提から三段論法を用いて人間や社会や自然の諸事象についての結論を導き出すことができるならそれは非常に強力な結論となりうる。哲学者たちが論理学を重視してきたことは当然といえるだろう。
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哲学
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110#76
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哲学的論理学においてはしばしば推論規則そのものの哲学的な正当性が問題となってきた。古典論理については排中律の是非が問題となってきたし、帰納論理についてはそもそも帰納論理なるものが成立するのかどうか自体が問題となった。こうした検討は認識論や科学哲学といった他の分野にも大きな影響を与えてきた。20世紀の初頭までには古典論理による推論の限界が明らかにされる一方でその公理系そのものを懐疑する視点から様相論理学、直観論理や矛盾許容論理などの展開も提示されている。
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哲学
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110#87
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数学者の田中一之は
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哲学
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110#93
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抽象的な概念を巡る定義や論争などは、証拠によって決着を着けたり、万人が合意するような立場に辿りつけたりする可能性が低く(あるいはそのような可能性が皆無で)、結論が出ないままに延々と議論だけが続く、(特に実証主義的な観点から)非生産的な学問であるとの見方もある。現に論理実証主義はそのような真偽の検証ができない命題や議論をナンセンスとして斥け、従来の哲学に対して否定的な立場を取った。神の存在証明を巡る中世のスコラ哲学、実存哲学などは、その典型であったといえよう(もっとも、前者は証明方法の洗練によって、論理学の発展にはかなり貢献した)。
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哲学
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110#94
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また、大学の哲学教員など現代の職業哲学者の従事する学問としての哲学は理性と言語による思考に特化しており必ずしも詩や宗教などと密接に結びついているわけではない。これに関して理性や言語による思考には限界や欠陥があり、人間の豊かな感性、感情を見落としがちであり哲学は学問分野としてそのような本質的限界、欠陥を抱え込んだ分野であると批判されることもある。
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哲学
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111#1
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強いビート感・グルーヴ感が特徴。
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ブラックミュージック
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112#1
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古代ギリシアの自然学 (, ) にその源があり, という言葉も、元々は自然についての一般的な知識の追求を意味しており、天体現象から生物現象までを含む幅広い概念だった。現在の物理現象のみを追求する として自然哲学から独立した意味を持つようになったのは19世紀からである。
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物理学
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112#10
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地上付近での物体の落下と月の運動を同じ万有引力によるものとしたニュートンの重力の理論は、それまであった惑星の運動に関するケプラーの法則や、ガリレイの落体運動の法則が万有引力の別の側面であることを示した。
マクスウェルは、それまでアンペールやファラデーらが個別に発見していた電気と磁気の法則が、電磁気という一つの法則にまとめられることを導き、電磁波の存在を理論的に予言し、光が電磁波の一種であることを示した。
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物理学
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112#16
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天動説や暦の作成などの天文学が最古の物理学である。初期文明であるシュメール人、古代エジプト人、インダス文明などは太陽や月などの天体を観察した。これらの天体は宗教的に崇拝され、現代からすれば非科学的な現象の説明もされたが、これがのちの天文学や物理学へと成長する。
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物理学
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112#20
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近世に入り、科学的研究法の発展の中で実験による理論検証の重要性が認識され始めた. 16世紀後半、ガリレイは力学現象の研究を行い、自由落下の法則と慣性の法則を見出した. 1687年にニュートンは『自然哲学の数学的諸原理』を出版した。ニュートンの示した理論は、ガリレイらの発見した法則を一般化し、包括的な説明を与えることに成功した。ニュートンの理論の中で最も基礎的な法則として、運動の法則と万有引力の法則が挙げられる。これらの法則は、天体の運行などの観測結果をよく説明することができた。ニュートン自身は力学法則を幾何学を用いて記述したが、オイラーなど後世の研究者によってそれらの理論は代数学的に記述されるようになった。ラグランジュ、ハミルトンらは古典力学を徹底的に拡張し、新しい定式化、原理、結果を導いた。重力の法則によって宇宙物理学の分野が起こされた。宇宙物理学は物理理論をもちいて天体現象を記述する。
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物理学
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112#29
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第二次世界大戦の間、核爆弾を作るという目的のために、研究は核物理の各方面に向けられた。ハイゼンベルクが率いたドイツの努力は実らなかったが、連合国のマンハッタン計画は成功を収めた。アメリカでは、フェルミが率いたチームが1942年に最初の人工的な核連鎖反応を達成し, 1945年にアメリカ合衆国ニューメキシコ州のアラモゴードで世界初の核爆弾が爆発した。
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物理学
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112#36
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宇宙物理学の分野でも1990年代から2000年代にかけて大きな進展が見られた。特に1990年代以降、大口径望遠鏡やハッブル宇宙望遠鏡・COBE・WMAP などの宇宙探査機によって格段に精度の良い観測データが大量に得られるようになり、宇宙論の分野でも定量的で精密な議論が可能になった。ビッグバン理論及びインフレーションモデルに基づく現代のΛ-CDM宇宙モデルはこれらの観測とよく合致しているが、反面、ダークマターの正体や宇宙の加速膨張を引き起こしていると考えられるダークエネルギーの存在など、依然として謎となっている問題も残されている。これ以外に、ガンマ線バーストや超高エネルギー宇宙線の起源なども未解決であり、これらを解明するための様々な宇宙探査プロジェクトが進行している。
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物理学
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115#1
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1916年、カール・ビュッヒャー () の尽力により、ライプツィヒ大学に「新聞学 (Zeitungswissenschaft)」の名を冠した研究所が設立され、正式な初代代表者となったのは、1926年から1933年に代表を務めたエリック・エフェルト () であった。1926年には、『"Zeitungswissenschaft"(新聞学)』と題した最初の学術誌が、カール・デスター (Karl d' Ester) とヴァルター・ハイデ () によって創刊された。1930年代には、ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学にも新聞学部門が設けられた。その主任であったエミール・ドヴィファート () は、長きにわたる闘争と幾多の議論を経て、映画やラジオもすべて新聞学の研究対象に含まれるものとし、新聞学の拡張を行なった。新聞学は、コミュニケーション学の先駆けであったと考えられる。
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新聞学
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117#0
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ソクラテス(希:Σωκράτης、ラテン語:Socrates、紀元前469年頃 - 紀元前399年4月27日)は、古代ギリシアの哲学者である。長母音を発音するならソークラテース。妻は、悪妻として知られる、クサンティッペ。
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ソクラテス
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117#2
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父は彫刻家ないし石工のソプロニスコス、母は助産婦のパイナレテとされる。アテナイに生まれ、生涯のほとんどをアテナイに暮らした[1]。彼はペロポネソス戦争において、アテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦、ボイオティア連邦との大会戦で重装歩兵として従軍した(アルキビアデスは騎兵として参加、当時の回想が『饗宴』に書かれている)。青年期には自然科学に興味を持ったとの説もあるが、晩年は倫理や徳を追求する哲学者としての生活に専念した。
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ソクラテス
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117#3
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プラトンの『ソクラテスの弁明』においてソクラテスが語ったところによると、彼独特の思想・スタイルが形成されるに至った直接のきっかけは、彼の弟子のカイレフォンが、デルポイにあるアポロンの神託所において、巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねてみたところ、「ソクラテス以上の賢者は一人もない」と答えられたことにある。これを聞いて、自分が小事・大事ともに疎くて賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、彼はその神託の反証を試みようと考えた。彼は世間で評判の賢者たちに会って問答(エレンコス,[ἔλεγχος]error: {{lang}}: unrecognized language code: gr (help))することで、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証するつもりであった。
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ソクラテス
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117#8
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ソクラテスは当時、賢人と呼ばれていた政治家や詩人達、さらには手工者をはじめとして、様々な人を次々に訪ね、「アポロンの宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」を検証するために対話を行なった。その結果、彼らの無知に対する無自覚ぶりと、無知を自覚している自分の優越性、神託の正しさを確信し、決意と使命感を持ってその活動にのめり込んでいくこととなり、ソクラテスが賢者であるという評判が広まる一方で、無知を指摘された人々やその関係者からは憎まれ、数多くの敵を作ることとなり、誹謗も起こるようになった[2]。更に、暇を持て余した富裕市民の息子達はソクラテスを面白がって追い回し、その試問を傍聴し、その中からは影響されて試問を模倣する者達も現れ、そんな青年達の試問の餌食となった人々もまた、ソクラテスへの憎悪を募らせることとなった[4]。
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ソクラテス
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117#9
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又、そんなソクラテスを、喜劇作家のアリストパネスが『雲』において、「地下ならびに天上の事象を探求し、悪事を曲げて善事となし、かつ他人にもこれらのことを教授する。」といった、自然哲学者とソフィストを混ぜ合わせたような怪しい人物として描いて揶揄し、大衆にその印象を広めたり[5]、ペロポネソス戦争で講和を破って戦争を再開した挙句、敵国スパルタに亡命し、アテナイの敗北を招いたアルキビアデスや、その後の三十人政権の指導者となったクリティアスなどが、ソクラテスに教えを施された弟子であったと見なされていた[6]ことも、ソクラテスを攻撃する絶好の口実となった。
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ソクラテス
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117#17
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(ソクラテスが後世に名をはせることになった理由としては、彼の弟子の中に、古代ギリシャの哲学者にして著述家であり、アカデメイアの創設者でもあるプラトンがいたこと、そして、そのプラトンが自身の著作の中心的な登場人物として、師であるソクラテスを用いたことを、あげることができる。)
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ソクラテス
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117#20
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ソクラテスの一見わかりづらい思想態度を理解するには、彼の生きた当時の時代背景や、ギリシャ世界におけるアテナイの立ち位置を知ることが、いくらか助けになる。
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ソクラテス
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117#21
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まず、彼に先行する哲学者やソフィスト達は、ほとんどがアナトリア半島(小アジア半島)沿岸や黒海周辺、あるいはイタリア半島の出身であり、ギリシャ世界における知的活動は、こういった植民市・辺境地によって先導されてきたものであり、アテナイを含むギリシャ中心地域は、それと比べると、古くからの神話や伝統に依存した保守的な土地柄であったという全体像を確認しておく必要がある。
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ソクラテス
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117#22
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ソクラテスが生きた紀元前5世紀当時のアテナイは、ペルシャ戦争を経てギリシャ世界の中心地としての地位を確立し、最盛期を迎えると共に、徹底した民主政が確立された時代から、ペロポネソス戦争の敗戦後状況による社会的、政治的混乱を経て没落していく時代にまたがっている。当然そこには、辺境地の哲学者達の知識や、優秀なソフィスト達が集まってくるし、民主政における処世術や弁論術を学ぶべく、彼らは歓迎されることになる。こうして古くからの神話・伝統に寄りかかった旧秩序が崩れ、徳・弁論術の講釈に長けたソフィスト達、唯物論・無神論的な自然哲学者(『ソクラテスの弁明』においては、アナクサゴラスがその代表として持ち出される[9])の知識などが新旧入り乱れ、アテナイの知的環境は混乱する。
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ソクラテス
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117#23
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ソクラテスの思想は、こういった引き裂かれた知的混乱状況の中、アテナイ人としての保守性と知的好奇心・合理的思考の狭間で揺れ動きつつ、どれにも与し得ないまま、誰の意見もが無知・思い込みを孕んだ怪しいものであることの経験的発見と、神々への信仰心が独特な形で結びつくことで成立したものだと言える。そのため、彼の思想的立場は、アテナイの保守層とも、外来・辺境のソフィスト・哲学者とも合致せず、そのどれに対しても相対的で、「無知の知」を投げかける特殊なものとなっている。
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ソクラテス
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117#33
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こうして、タレースなどミレトス学派(イオニア学派)に始まる自然哲学とは対照的な、人間・社会にまつわる概念を執拗に吟味・探求する哲学がソクラテスによって開始され、後にその弟子であるプラトン、更にその弟子であるアリストテレスが、(ピタゴラス教団やエレア派の影響を受けつつ)形而上学をそこに持ち込むことによって、その両者(「自然」と「人間・社会」)のあり方の説明を、包括的に一つの枠組みに統合・合理化したという見解が、一般的に広く受け入れられている。
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ソクラテス
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117#47
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ソクラテスの弟子の一人とされるクセノポンは『ソクラテスの思い出』などソクラテスに関する文章を記しており、今日まで比較的よく保存されている。ただし、西洋哲学の場においては「一切の哲学はプラトンの注釈である」と言われるように、ソクラテスについての理解もプラトンの著作と思想(プラトン主義)を通じて行われる厚い伝統があり、クセノポンの描くソクラテスは通俗的で哲学者としての力量をとらえきれていないとする風潮がある[21]。
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ソクラテス
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120#1
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スポーツとは、一定のルールに則って勝敗を競ったり、楽しみを求めたりする身体運動のことである。ただし身体運動が主ではない場合でも、マインドスポーツやモータースポーツなどのように、少しでも身体運動を伴った競技性のある活動をある種の"スポーツ"として認めるように主張されることもある。特に近年では複数のプレイヤーで対戦されるコンピューターゲームをeスポーツ(エレクトロニックスポーツ)と呼び始めるようになった。これらと対比して、身体運動が主であるスポーツをフィジカルスポーツと総称することもある。
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スポーツ
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120#3
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しかし19世紀に入ると、権威主義に対抗した筋肉的キリスト教 () 運動や、運動競技による人格形成論が台頭、貴族階級から開放され労働階級によるスポーツの大衆化が進んだ。近代になると統括組織(競技連盟など)によって整備されたルールに則って運営され、試合結果を記録として比較し、娯楽性よりも記録の更新をよしとする競技を第一に意味するようになった。日本でも国民の身体的健康を目的として運動競技=スポーツを推奨し、現在まで定着した。
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スポーツ
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120#6
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スポーツには様々な分類方法がある。
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スポーツ
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121#4
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1833年(天保4年)から回向院で相撲興行が催されていたことから、1909年(明治42年)に<b data-parsoid='{"dsr":[862,872,3,3]}'>旧国技館</b>は、同境内に建設された。明治20年代(1887年-1896年)初めごろから安定した興業が開催できる相撲常設館の建設が必要であるという意見が出て、明治30年代(1897年-1906年)となって常設館建設に動くことになった[1]。その後、日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物となった。屋根は法隆寺金堂を真似た。約13,000人収容できた。開館当初は仮称で、翌年から国技館という呼び方が定着した。また、鉄柱308本と鉄材538tで建造された大屋根が巨大な傘に見えたため、大鉄傘</b>という愛称で呼ばれていた。
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両国国技館
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121#7
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1906年(明治39年)6月着工、3年後の1909年(明治42年)5月に竣工し、6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用された(それまでは<b data-parsoid='{"dsr":[1561,1571,3,3]}'>小屋掛け(臨時に設備を設けて行なうこと)による「回向院場所」が行なわれていた)。しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無かった。6月場所は本来は5月18日より興業との番付が発表されており、工事の遅延によって場所が延期となって6月開催となったという経緯がある[1]。
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両国国技館
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121#18
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以降はプロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。ちなみに日本初の公開プロレスは1951年(昭和26年)9月30日にメモリアルホールで開催されており、大相撲を廃業したばかりの力道山がリングサイドで観戦、約1ヵ月後の10月28日にエキシビションながら同じメモリアルホールのリングに上がり、前世界チャンピオンのボビー・ブランズと対戦し、これがプロレスデビューとなった。また、全日本柔道選手権大会の会場にも使用された。
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両国国技館
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159#1
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英語 "linguistics"(言語学)の語源は "linguistique"(フランス語)、さらにさかのぼると"lingua"(ラテン語、「舌、言葉」の意)であり、"linguistics"という語は1850年代から使われ始めた。
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言語学
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159#13
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西洋における言語研究の始まりは、紀元前にギリシアの哲学者たち(プラトン、エピクロスなど)の間で起こった言語起源論や修辞学にまでさかのぼる。古典ギリシア語の文法書は、紀元前1世紀までに完成し、ラテン語のほか後の西洋の言語の文法学(伝統文法)に大きな影響を与えた。
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言語学
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161#0
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著作権(ちょさくけん、English: copyright、コピーライト)は、最広義には著作者の有する実定法上の権利(著作財産権、著作者人格権、著作隣接権)をいう[1]。
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著作権
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161#1
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このうち広義の著作権は著作財産権と著作者人格権をいう[1]。著作者は、著作者人格権を持ち、同時に、財産権である著作権を持つ[2]。また、狭義には著作財産権のみをいう[1]。
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著作権
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161#2
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著作権は知的創作活動の成果(知的創造物)を内容とする権利で、特許権など産業財産権とともに知的財産権(知的所有権)の一種である[3][4]。ただし、特許権などの産業財産権が産業の発達を目的とする技術的思想(アイデア)を保護の対象とする権利なのに対し、著作権は文化の発展を目的とする表現を保護の対象とする権利である[3][4]。特許権などの産業財産権では登録により権利が発生する審査登録主義がとられているのに対し、著作権は多くの国において創作した時点で権利が発生する無方式主義がとられている[3][4]。
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著作権
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161#3
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著作権は人権(財産権)の一種である[5]。「著作権」という語は、人権としての著作権の他に、法的権利としての著作権(さらに細かくは国際法上の著作権や、憲法上の著作権等)という側面もある[6]。
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著作権
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161#4
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先述のように、著作権は狭義には著作財産権のみを指し、広義には著作財産権と著作者人格権、最広義には著作者の有する実定法上の権利(著作財産権、著作者人格権、著作隣接権)の総体をいう[1]。広義の著作権概念は概して大陸法の諸国で用いられる著作権概念である[1]。一方、狭義の著作権概念は英米法の諸国で用いられる著作権概念である[1]。日本の著作権法は「著作者の権利」のもとに「著作権」と「著作者人格権」をおく二元的構成をとっている[1]。
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著作権
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161#5
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著作権は狭義には著作財産権のことをいう[1]。著作者に対して付与される財産権であり[2]、著作物を独占的・排他的に利用する権利である[1]。著者は、著作権(財産権)を、他人に干渉されることなく、利用する権利を持つ[7]。例えば、小説の著作者(作者)は、他人に干渉されることなく出版、映画化、翻訳する事ができる。
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著作権
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161#7
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しかし、著作者の合意(許諾)を得ていない他人が、その著作物を広く世間に発表(公表)すると、著作者は、生活するために必要な収入を失い、「執筆」「作曲」「映画製作」などの仕事(創作事業)も継続できなくなる。この、他人による著作者の財産を盗み取る行為が、著作権の侵害である。
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著作権
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161#10
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狭義の著作権(著作財産権)は財産権の一種であるが、著作者に認められる権利(著作者の権利)としては、その他に著作者の人格的利益を保護するものとして、人格権の一種である<b data-parsoid='{"dsr":[3227,3239,3,3]}'>著作者人格権</b>がある。両者の関係については考え方及び立法例が分かれる。
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著作権
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161#11
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まず、著作権法により著作者に対して保障する権利を純粋に財産権としての著作権として把握する考え方がある。この考え方を徹底しているのがアメリカ合衆国著作権法であり、著作者の人格的権利はコモン・ロー上の人格権の範疇に含まれる。もっとも、ベルヌ条約が加盟国に対して著作者人格権の保護を要求していることもあり、1990年の法改正により、視覚芸術著作物について限定された形で著作者人格権を保護する旨の規定を設けた(106A条)。
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著作権
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161#13
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第3に、著作者に対して、財産的権利と人格的権利の双方を著作権法上保障するが、両者は一体となっており分離できないものとして把握する考え方がある。ドイツの1965年9月9日の著作権及び著作隣接権に関する法律がこの考え方に立脚しており、著作者の権利の内容を構成するものとして著作者人格権に関する規定を置いているが(11条-14条)、財産権と人格権が一体化しているがゆえに、財産権をも含む著作者の権利について譲渡ができない旨の規定が置かれている(29条)点にこのような考え方が現れている。
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著作権
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161#16
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著作権の本格的に考慮されるようになったのは、15世紀にグーテンベルクによる印刷術が確立するとともに、出版物の大量の模倣品が問題化するようになってからである[15][16]。
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著作権
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161#18
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16世紀初頭、イギリスではアン法(クイーン・アン法、1709年制定、1710年施行)で著作者の権利、すなわち著作権を認めた[15][16]。この法では、著作権の有効期間(14年、1度更新可能で最大28年)や、その後のパブリック・ドメインの概念も制定されている[註釈 1]。
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著作権
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161#19
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フランスでは1793年に著作権法が制定された[15]。その後、18世紀から19世紀にかけて各国で著作権を保護する法律が成立した[15]。19世紀に入ると著作権の対象は印刷物以外(音楽、写真など)に拡大されていく。
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著作権
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161#20
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ところが19世紀半ばになっても著作権の保護の法律を持たない国があり、イギリスやフランスなどの作家の書いた作品が複製による被害をこうむっていた[15]。そのため、1886年にベルヌ条約で国際的な著作権の取り決めができ[18]、1952年に万国著作権条約が締結された[19]。
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著作権
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161#36
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ベルヌ条約に加盟し無方式主義を採る国においては著作物を創作した時点で著作権が発生するため、著作物に特定の表示を行う義務は課されていない。一方、ベルヌ条約締結後も同条約に加盟せず方式主義をとる国々があった[34]。そのため自国が無方式主義を義務づけるベルヌ条約を締結していても、方式主義を採る国々では著作権発生の要件を満たさずそのままでは著作権保護を得ることができず不都合を生じていた。そこで万国著作権条約は無方式主義を採る国における著作物が方式主義を採る国でも著作権保護を得ることができるよう、氏名と最初の発行年、©のマークの3つを著作権表示として明示すれば自動的に著作権の保護を受けることができるとした[40]。著作権マーク「©」は、著作権の発生要件として著作物への一定の表示を求める方式主義国において、要件を満たす著作権表示を行うために用いられるマークである[28]。
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著作権
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